「〜すると疲れる」→「〜しなければよい」

という解決手段を最近よく見るけど、「〜すると疲れる」という人は、「〜する」ことをやめたいわけではなく、「〜する」けど疲れないようにしたいという問題に対する解答を求めているのであり、「〜しなければいい」という言葉は解答にすらなっていない。

最近思うのだが、「〜ということに問題だ」ということに対して、「〜を0にすればいい」という解決策を唱える人が多すぎて、辟易する。そういう人は、物事を解決する気がないのではないかと思ってしまう。自分自身にしか当てはまらないことは、ただの例外でしかない。「〜しなければよい」ための「〜しない」ための道筋を全く示していないのだから。

よくあるのが、「mixiするとつかれる」のなら、「mixiをしなければよい」ではなく、まず、「なぜ、mixiをすると疲れるのか」を解明した方がよい。「日記を書くのが疲れる」のか、「マイミクのコメントを書くのが疲れる」のでは、解決方法がことなるのだから。

ちなみに、わたしの場合は、「どうせ何を書いてもわかってくれる人がいないので、やりたいようにやらせてもらう」ということでFA。